火の見櫓
江戸の街はそもそも軍事基地として成立したので、武士の土地、町人の土地、寺社の土地と明確に区分され、行政も個別に行われていました。特に江戸時代初期には戦時体制が残り、江戸城内や武家屋敷の出火の際は、それぞれ自家で対応するのが原則。大名火消(だいみょうびけし)の始まりです。幕府は火事騒ぎに乗じた謀反を警戒し、治安維持を重視しますから、納得ですね。
しかし火事は絶えず、特に振袖火事とも呼ばれる1657年の明暦の大火は、江戸城本丸をはじめ市中を焼き尽くしました。防火体制の整備を痛感した幕府はその後、定火消(じょうびけし)と呼ぶ幕府直属の消防隊を創設し、役屋敷も与えます。最初は麹町半蔵門外、飯田町、市谷佐内坂、御茶ノ水の4か所。そののち、増減を経て10組前後になります。各屋敷は火の見櫓を設け太鼓、半鐘、板木などを備え、与力、同心、火消人足を擁していました。