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Utsuke Bron

フランス パリで絶賛を浴びたただ一人の日本人画家

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フランス パリで絶賛を浴びたただ一人の日本人画家

フレスコ画 聖母子像

フレスコ画 聖母子像

12月に入り、寒さも一層厳しくなり、冬の到来を改めて実感します。先日は54年ぶりに観測された11月の初雪には驚かされましたね。さて、先の11月27日は画家・藤田嗣治が生まれて130年を迎えた日。藤田は1886年(明治19年)に東京府牛込区(現在の新宿区)新小川町で生まれました。
第一次世界大戦後の1920年代の西洋画壇で絶賛を浴びた藤田でしたが、日本では思いの外受け入れられることがありませんでした。「日本が私を捨てたのだ」といってフランスを生きる場に選んだ藤田の生涯を顧みたいと思います。

オカッパ頭にロイド眼鏡、奇矯なふるまいには理由が

フジタの肖像-Ismael Nery

フジタの肖像-Ismael Nery

藤田嗣治が生まれた1886年は明治維新を越えて初代総理大臣となった伊藤博文が国会の開設や、大日本帝国憲法の制定にむけて準備をしている、まさに日本という国の体制が作られている時代でした。
二人の姉と兄、四人兄弟の末っ子として生まれた嗣治は「玩具のように可愛がられた」と回想しています。父親は陸軍軍医で、後に森鴎外の後を継ぐ陸軍軍医総監となる軍人の家でした。しかしながら母方の従兄弟に洋画家の岡田三郎助、劇作家の小山内薫、甥に音楽、舞台評論家の葦原英了、建築家の葦原義信といった芸術家を多く生み出す家系でもありました。
14歳の時、医者にしたいという父の希望を知った嗣治が画家になりたい旨を手紙に託し父に送ったところ、父から画材を買うようにと50円という大金を与えられた、というエピソードがあります。お堅い軍人だけの顔だけではない、本人の希望と才能を受け入れるおおらかな教育方針を持つ父親像を見ることができるのです。

18歳、東京高等師範付属中学卒業後にフランス留学の希望を父に申し出ますが、森鴎外の助言で東京美術学校西洋画科に入学します。これは画家としての成功を考えてアカデミックな土台を持つことを良しとした鴎外の親心だったようです。しかし当時の画壇は、フランス留学から帰国した黒田清輝を中心とした絵画論による革新運動が急進的に行われており、この流れに素直に乗れない嗣治にとって大学での勉強は失望ばかりの日々だったようです。そんな中でも岡本一平(岡本太郎の父)など個性的な友人との交流は、この後も嗣治にとって大切な楽しい思い出となったそうです。

24歳で東京美術学校を卒業後文展に応募するも落選を3度繰り返します。その頃嗣治は鴇田とみと大恋愛をして26歳の時に初めての結婚をします。しかしその結婚も長くは続かず27歳の時、父親から3年間の送金を約束をもらいフランスへ単身留学します。
パリで落ち着いた町はモンパルナス。当時はまだ閑散としていて家賃の安さから若い画家たちが集まり始めていました。その中にはロシアからシャガール、イタリアからモディリアーニ、ブルガリアのパスキン、ベラルーシのスーティン、ポーランドのキスリングといった人達がいます。パリで出会った美術と自らの民族や国民性を造形に取り入れたスタイルを確立していった画家達で、嗣治とともにエコール・ド・パリ(パリ派)と呼ばれました。

28歳、渡仏してすぐに1914年に第一次世界大戦が起き送金が止まり窮乏生活をしいられます。そんな中でも画業に打ち込むことは忘れず常に画を描くことを一番に勉強に励んだと回想しています。そんな中でトレードマークのオカッパ頭できあがります。床屋にいくお金がないので髪の毛が伸びるたびに自分切っていったそうです。嗣治は知る人のないパリで美術を学び生活していくために、自分をいかに演出しアピールすることが大切かを感じ取り、プライドを捨てて人々に交わり、交友関係を作り上げていったようです。派手な衣装を身につけたり、パーティに呼ばれて何か踊れと言われれば喜んで日本の踊りをおどって喝采をさらったということです。このような振る舞いはおとなしい日本人から見れば奇矯なものに写ったことでしょう。こうした努力もあってピカソに紹介されるという幸運にも恵まれアパートを訪ねます。この時キュビズムに出会い強烈な印象をうけます。パリは東京美術学校でならった黒田清輝の印象派はすでに時流から去り、キュビズム、シュールレアリスムといった新しい絵画が登場してきていたのでした。

嗣治は30歳になり父親との約束の3年が過ぎます。この時父に手紙を送り留学継続を宣言し父からの送金も断ります。自力でパリで画家として成功することを心に決したのです。日本においてきた妻とみと正式に離婚します。

1918年終戦を迎えたパリは芸術活動が再開されます。ヨーロッパやアジアから成功を目指し人々が集まってきました。戦後の好景気に文化の香りを求めてパリにやって来たアメリカ人は裕福な人が多く芸術家のスポンサーとなりました。そんな平和と豊かさに溢れたパリのようすを嗣治は『巴里の横顔』で「お祀りの後で女が母になる事も珍しくない」と語っています。モンパルナスは夜ごと乱痴気騒ぎが繰り返され、ハッシッシなどのドラッグがカフェで取引され画家たちもアトリエで吸引したといいます。これは1929年の世界恐慌まで続きます。後に「狂乱の時代」と名づけられたパリは、嗣治が脚光を浴びた1920年代とまさに重なります。

絶賛された嗣治の独創「乳白色の肌」の秘密

シッカロールと面相筆

シッカロールと面相筆

1919年終戦で再開されたサロン・ドートンヌに出品した6点全てが入賞する、という快挙を嗣治は33歳でとげます。2年後の1921年には「自画像」「私の部屋、目覚まし時計のある静物」「裸婦」の3点をサロン・ドートンヌに出品され絶賛を浴びます。「私の部屋」は自身のアトリエの様子が描かれています。白い壁には3枚の皿が飾られ、その下の棚には目覚まし時計、ロイド眼鏡、パイプなど愛用の品々がおかれ、穏やかで落ち着いた画家のまなざしが感じられます。パリの評論家からは「物の細部を描く細かなタッチは藤田ならでは」と高い評価を受けました。この作品は終生愛して身近に置いていましたが現在はフランス国立近代美術館にあります。このように嗣治は次々とパリ画壇を驚かせる作品を発表し続けます。

なによりも藤田嗣治が世界に認められたのは独自の表現方法を獲得したことによります。「画家は古い伝統を破って自らの画風を確立すべき」という思いを画を学び始めたときから持っていたと思われます。パリに来てからもまわりの才能に刺激されながら、人の模倣ではない独自の表現を探し続けていた結果得られたのが「乳白色の肌」。その代表作が「寝室の裸婦 キキ」です。
裸婦は西洋美術では重要なテーマのひとつになります。実はこの肌の表現は嗣治は浮世絵からヒントをえたようです。嗣治のエッセイ『腕一本』に次のような一文があります。

「春信・歌麿などの画に表れる、僅かに脚部の一部分とか膝のあたりの小部分を覗かせて、あくまでも肌の実感をえがいているのだという点に思い当たり。初めて肌というもっとも美しいマチエールを表現してみんと決意した」

これが嗣治の独創「乳白色の肌」誕生のきっかけだったようです。
長い間その技法は謎に包まれていましたが、2000年以降に行われた藤田作品の油彩画の修復に際して、キャンヴァスに独創が秘められていたことがわかりました。
通常のキャンヴァスは2層からなりますが、嗣治のは3層ありました。第一層目は通常の膠。第二層目から通常キャンヴァスに使われない硫酸バリウムが検出されました。さらに第三層目には鉛白と炭酸カルシウムを塗り重ねていたのです。鉛白は白の顔料として最もよく知られており、鮮やかな白い色を出すので下地にもよく使われています。もう一つの炭酸カルシウムは鉛白と同じ白の顔料ですが、オイルで溶かすと黄色味を帯びた発色をします。嗣治はこの炭酸カルシウムと鉛白を混ぜ合わせていたのです。膠の上に三種類の顔料で作る二層の下地を重ねててきたキャンヴァスは、黄色と白の微妙な配合によって鮮やかな白にあたたかさがほんのりと加わります。嗣治のたゆみない努力のたまものではないでしょうか。この炭酸カルシウム、実は和光堂株式会社の「シッカロール」が使われていたことが、土門拳氏による制作の様子を撮影した写真によりわかっています。このような身近なものが美しい画の材料となることなど想像にも及びませんね。

もう一つ、嗣治がパリの評論家を驚かせたのはその流麗な輪郭線でした。身体や眉毛や鼻の輪郭など繊細で美しい黒い線は肌の色を際立たせているのです。これを描くのに日本画の面相筆と墨を使うという工夫をしました。穂先が細長く弾力と粘りのある毛で出来ているため細かく長い線を描くことが出来るからです。

このように嗣治はパリで日本人である自分を最大限に生かして、西洋画の世界に記される新しい技法を作り上げたのでした。

フランスでの栄光と日本での挫折

受洗したノートルダム大聖堂

受洗したノートルダム大聖堂

1925年嗣治39歳の時フランスよりレジオン・ド・ヌール勲章とベルギーからレオポルド一世勲章を受けます。レジオン・ド・ヌール勲章はナポレオンが1802年に制定したフランスで最も権威ある勲章で、軍事や文化的功績に対して与えられます。
フランスでの大きな成功のなか、嗣治には自分の芸術を日本で認めてもらいたいという思いがありました。しかしこれはなかなか叶えられません。

1929年43歳の時に17年ぶりの帰国を果たします。しかし思うように目的を達成することはできず、冷たい批判と誤解のなかパリへ戻ります。ふたたび日本に戻るのは1933年のこと。この日本滞在で嗣治は大画面の壁画制作に取り組みます。この間に生涯の伴侶となる君代夫人と出会い5度目の結婚をします。その後1939年に53歳で渡仏しますが、第二次世界大戦勃発で1940年に帰国します。1945年の終戦まで嗣治は戦争画と取り組むことになります。
そのきっかけとなったのが1941年55歳の時の『吧爾吧(ハルハ)河畔之戦闘』です。これはノモンハン事件において、歴史的大敗の責任をとった元陸軍中将、荻須立兵の依頼によるもので、戦死した部下の霊を慰めるためにという個人的な依頼でした。縦1.4メートル横4.48メートルの大作は緑の草原と青空、その地平線の果てまで描かれる前進する日本軍兵士と、前景にソ連軍の戦車によじ登り銃剣で入口をこじ開けようとする兵士の姿が大きく描かれています。
この他にも1943年『アッツ島玉砕』、1945年『サイパン島同胞臣節を全うす』次々と大きな画を仕上げます。いずれも孤島での玉砕を暗い色調で描いた悲惨なものですが、嗣治のすぐれた描写力と構成力は見る者に作品のエネルギーを伝える大作となりました。記録画巡回展が青森で催されたとき、嗣治は『アッツ島玉砕』の前で年老いた男女が膝をつき祈り拝み、御賽銭を画に投げて供養を捧げる姿に遭遇し、今までに感じたことのない衝撃を受けます。ふだん絵画を見ることなど無い人々が自分の描いた画に手を合わせて拝んでいる。これほどの感銘を与えることができた事に大いに心打たれ「数多く描いてきた画の中でも尤も快心の作」と語っています。

戦争が終わるとGHQは、戦争画の美術的価値を認め「日本占領」のテーマに絵画収集に動きます。その協力を申し出られた嗣治は、まさに自分が適任であると喜んで引きうけました。
一方軍国主義者の公職追放や戦争犯罪を裁く極東軍事裁判がの準備が始まるとると、GHQからの責任追及を怖れた日本人美術関係者が自主的に責任者をリストアップし始めます。そのやり玉に挙がったのが嗣治でした。嗣治は旧知の画家に「戦争画を描いた画家の代表として、当局に出頭して欲しい」と告げられるのです。日本のために一生懸命描いてきた自分を、やはり拒否しようとする美術界の仕打ちを知り落胆します。そして潔く責任を引きうけます。この時の日本美術界に対する失望は生涯消えぬ傷となり、やがて日本との決別を心に固めることになります。君代夫人に嗣治は「私が日本を捨てたのではない。捨てられたのだ」と何度も語っていたということです。嗣治に対する誤解と中傷は最後までなくなることはありませんでした。

1949年63歳の3月羽田からアメリカへ出発。ニューヨークで1年過ごします。その間に戦後の代表作となる「カフェ」で黒いドレスを着た女性を描き、久しぶりに「乳白色の肌」が甦ります。
1950年パリへ到着しますが、待っていたのはかつて嗣治が華やかに活躍したパリではありませんでした。美術界も戦後になると抽象的な作品に人気が集まるようになり、中心もニューヨークへと移りつつありました。そんな中でも嗣治はパリ、アルジェ、マドリッドで個展を開いて画の精進を続けていきます。

この頃の多くの作品に子供が描かれています。額の広い無表情でどの顔も造作が同じな少女や少年たち。その独特の顔はみなさんもおなじみと思います。子供の絵について嗣治は「本当にこの世の中に存在している子供ではない。私の画の子供がわたしの息子なり娘なりで一番愛したい子供だ」といっています。子供に恵まれなかった嗣治にとっては、心の中の子供ゆえに人形のような同じ顔に描かれたのかもしれません。

1955年68歳で嗣治は君代夫人とともにフランス国籍を取得し帰化します。そして保持することのできた日本国籍を抹消します。

神に抱かれて過ごした晩年

1959年72歳の時、パリから北東へ約130キロシャンパーニュ地方の中心都市ランスにあるノートルダム大聖堂で君代夫人とカトリックの洗礼を受けます。この時に与えられた洗礼名が「レオナール」、尊敬するレオナルド・ダ・ビンチから取った名前でした。こうして神の子となった嗣治はレオナール・フジタとなりました。

1964年78歳の時にパリで最後の個展を開きます。その翌年「一生の終止符を打つ」仕事としてランスに平和の聖母礼拝堂(ノートルダム・ド・ラ・ペ)の建設を決意します。礼拝堂内部の壁四面にはフレスコ画で聖母子像、受胎告知、東方三博士の礼拝、キリストの磔刑など聖書のテーマを描きました。この時すでに癌を患っていましたが、全身全霊を傾けてこの神聖な主題にもとづくおよそ100㎡に及ぶ壁画を3ヶ月弱で完成させます。
1966年8月に礼拝堂は完成した後、パリで癌治療のために入院します。入退院を繰り返し1968年1月29日スイスのチューリッヒ病院で亡くなります。81歳でした。
嗣治の死をパリの国営テレビニュースは「モンパルナスの歴史はこうして少しずつ死んでいく」と伝え哀悼の意を表しました。

32年間嗣治とともに暮らした君代夫人は、その後日本に生活をもどします。嗣治の作品を大切に保管し2009年になくなります。

画家として認められ、画を描いて生きていくことをもっとも大切にした嗣治は、自分の絵を守るために日本を捨てましたが、美術に国境はなく普遍であると信じていたにちがいありません。

今年も残りわずかとなりましたが、もし興味を持たれましたら、
藤田嗣治の展覧会へと足を運ばれてみてはいかがでしょうか?

○「レオナール・フジタとモデルたち」
2016年9月17日(土)から2017年1月15日(日)DIC川村記念美術館

○「生誕130年記念 藤田嗣治展 -東と西を結ぶ絵画-」府中市美術館
2016年10月1日(土)から12月11日(日)


参考文献:
近藤史人『藤田嗣治「異邦人」の生涯』
藤田嗣治『腕一本・巴里の横顔』 (講談社文芸文庫)
藤田嗣治『随筆集 地を泳ぐ』 (平凡社ライブラリー)
林洋子 『藤田嗣治生涯と作品』(東京美術 もっと知りたいシリーズ)
聖母礼拝堂 ランス

聖母礼拝堂 ランス

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