これが「Hydrangea otaksa」二人の思い出の紫陽花だったのでしょうか
激しく落胆したであろうシーボルト。しかし、たとえ他の男性のものとなっても、シーボルトもお滝さんのことを忘れようとはしませんでした。
帰国後の生涯を「日本学」の研究に捧げようとしていた彼は、その研究成果の中に、お滝さんの面影を留めようとしたのです。
1832年、彼が刊行した『日本』という本では、侍、町人、僧侶など、当時の様々な日本人の絵姿が紹介されていますが、その中には、お滝さんの肖像が特に大きく収められています。
お滝さんへの愛が真実であり、永遠であるというシーボルトの誓いのようにも思われます。
続いて、シーボルトは、日本の様々な植物を掲載した『日本植物誌』を刊行します。
そこで彼は、長崎の中国寺で採取したという空色の紫陽花を「Hydrangea otaksa」(ハイドランゼア オタクサ)と名づけて紹介したのです。
「オタクサ」とは、「お滝さん」のこと。ドイツ人シーボルトが、妻の名を呼ぶ時の発音そのままを花の名にしたのでした。