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Utsuke Bron

【日本の中のロシア文化】西洋式ホテルの黎明期と、パン職人

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【日本の中のロシア文化】西洋式ホテルの黎明期と、パン職人

日本のパンづくり黎明期に、ロシアゆかりの人びとが活躍していた

日本のパンづくり黎明期に、ロシアゆかりの人びとが活躍していた

「日本の中のロシア文化」をお伝えしているこのシリーズ。
2016年6月にはボルシチなどのロシア料理、同じく9月にはロシアクッキーやシベリアなど、ロシアにちなんだお菓子についてご紹介しました。
料理、お菓子ときたら、次に連想するのは「パン」。実は、日本における本格的なパン作りの黎明期に、ロシアゆかりの職人が活躍していたのです。
その舞台は、かの帝国ホテル。折しも明日11月20日は「ホテルの日」。帝国ホテル開業の日にちなんで制定された記念日です。今回は、日本における西洋式ホテルの誕生と、そこで作られたパンのお話をご紹介します。

日本で最初の「洋風ホテル」を手がけたのは誰?

日本で初めて洋風ホテルができたのは、今もロシアの面影が残るこの街

日本で初めて洋風ホテルができたのは、今もロシアの面影が残るこの街

日本において「西洋式ホテル」が初めて建ったのは、どこだと思いますか?
長崎? それとも横浜?

正解は、実は「函館」。
1863(文久3)年ごろ、ロシア人のアレクセーエフ夫妻が始めた「ロシアホテル」が、いわゆる洋風ホテルのルーツなのだそうです。

夫妻のうち夫のアレクセーエフ氏は、東京・お茶の水の「ニコライ堂」で有名なニコライ神父とも親交があった人物。
東京での布教を開始するニコライ神父とともに上京した後、函館に戻ることなく死去したと伝えられています。

やがて明治の世になると、長崎を中心に多くの西洋式ホテルが登場しました。
さまざまな国の人びとが経営を手がけましたが、その中にはもちろんロシア人も。
とくに大浦25番地にあった「ホテル・ダルニー・ヴォストック」は、美味しいロシア料理を目当てのお客で繁盛したといいます。

しかしその後、ロシア革命による政治・経済の混乱で、ロシア国内の景気が後退。
ロシア人客が減少したことで、ロシア系ホテルは徐々に姿を消していきました。

ホテルといえば「レストラン」……そこで必要なのは?

上でも少しふれたとおり、西洋式ホテルにはレストランでの食事を目的としたお客も数多く訪れました。
そこで、にわかに必要性が生じたのが「パン製造」です。

ただし、当時の日本人の多くは、パンなど見たことも食べたこともありませんでした。
一般的にパンは生地を発酵させて作りますが、その匂いに抵抗を感じる人も多かったのだとか。

とはいえ、外国人が多く住む大都市を中心に、日本の人びとも次第にパンの味に親しむように。
「美味しいパンを食べたい」と思う人が、少しずつ増えていったのです。

日本に本格的なパンづくりを伝えた、ロシアゆかりの職人

本格的なパン製造の技術が、ホテルのベーカリーを舞台に伝えられた

本格的なパン製造の技術が、ホテルのベーカリーを舞台に伝えられた

そんな頃、帝国ホテルが招いたのが、イワン・サゴヤンというアルメニア出身のパン職人。
ロシア宮廷に仕えた経歴を持つという彼は、当時ハルビン(現在の中国)のホテルで働いていました。
明治時代に活躍した有名な実業家・大倉喜八郎が、このホテルでサゴヤンが焼いたパンを食べて感激。
経営に携わっていた帝国ホテルに、招へいしたのです。

アルメニア出身のため、実力はありながらロシア宮廷に入ることは叶わなかったという説もあるサゴヤン。
いずれにせよ、パン職人としての腕は折り紙付きでした。
その後、彼は帝国ホテルに長く勤め、たくさんのお弟子さんたちに、パン製造の技術を伝えていくのです。

現在でも帝国ホテルでは、サゴヤンの技術を受け継いだパンが製造されています。
また、その流れを汲むベーカリーも存在しています。気になる方は、ぜひお店を訪ねてみてはいかがでしょうか。

ロシアでは、パン(フレーブ)と塩(ソーリ)は「もてなし、歓待」の象徴。
食糧不足に悩まされたソ連時代にも、人びとは「フレーブ・ソーリ」の精神を大切に、互いに助け合ったといわれます。ロシアのおもてなしの心を想像しながら、美味しいパンを探しに出かけるのも楽しそうです!


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