赤穂義士のうち、俳号を持つ者は「十指に余る」とされたそうです。子葉のほかの人物と俳号(以下「」内)も、一部ご紹介しましょう。
大石内蔵助 「可笑」
冨森助右衛門 「春帆」
神崎与五郎 「竹平」
萱(茅)野三平 「涓泉」
茅野和助 「禿峰」
吉田忠左衛門 「白砂」
間十次郎 「如柳」
浅野家がまだ平穏な時代に、子葉・大高源吾がリーダーとなり、『元禄播赤歌仙』と銘打つ句会を開いた、楽し気な記録も残っています。
歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の早野勘平のモデルとなった萱野三平は、実際には義士に加わろうとしたが父に反対され、二十八歳の若さで自刃した人物。涓泉(けんせん)と号して、やはり討ち入りなど思いも及ばなかったであろう時期に、瑞々しい句を残しています。
・ちる花や先(まづ)前帯や発菩提
・勝尾寺の庇間寒し茨(ばら)の花
・春の野や何につられてうはのそら
元禄の「かぶき者」の空気を存分に吸った俳人義士は豊かな感受性に恵まれ、俳諧の分野で自己表現していました。活気に満ちていた赤穂藩の、討ち入り前の風雅な世界。その背景は、その後の彼らの運命に、どう影響したのでしょうか。俳句の視点から観る忠臣蔵の物語も、奥深いものがありますね。
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