賽の河原(地蔵が子供を救う)※文化庁 国指定文化財等データベースより
さて、その鬼来迎の起源、縁起の由来はどのようなものだったのでしょうか。
伝説によれば、鎌倉時代、後鳥羽院の時代(1183年~1198年)、薩摩国(現在の鹿児島県)の禅僧・石屋(せきおく)が、衆生済度を願い諸国修行のたびの折、虫生の村はずれの辻堂に宿を取ったとき、妙西信女という17歳の亡者が、地獄の鬼に攻められるのを夢うつつに見ます。翌日、妙西の墓に墓参に来た土地の城主椎名安芸守と出会い、この人が妙西の父だと知ります。石屋は自分が見た亡くなった娘の地獄の責め苦を語り、安芸守はどうか娘の苦しみを取り除いてくれと頼みます。石屋は「妙西」という戒名が迷いの元であるとして「広西」と改めるように進言、父は「広西信女」と記して新たに卒塔婆を立て直します。するとその夜も地獄の鬼が現れて、妙西改め広西に責め苦を負わせますが、そのとき観音菩薩が現れて、鬼と問答の末、自分が責め苦を負うかわりに娘を解き放つよう諭します。鬼は抵抗しますが新たな卒塔婆を見ると観念し、娘は西方の極楽浄土に飛び立っていく・・・父・安芸守は感激して新たに堂を立て「広西寺」と名づけました。
そのころ、鎌倉には運慶、湛慶、安阿弥という仏師がいたが、彼らも同時にこのいきさつを夢で見ます。場所を問えば「下総国(今の千葉県北部)小田部の里の山間である」と。三人はここを訪ね、広西寺の住職をつとめていた石屋和尚に夢で見たことを話します。石屋はその不思議に感激して、仏師に閻魔大王以下、数々の面を彫刻を依頼、和尚と運慶らは自作の面をつけて衆生済度の鬼舞をはじめたのだとか。
この話には後日談があり、近隣の小田部の里の女がたわむれにこの鬼の面を顔に当てると離れなくなってしまった。耳を切っても離れず、そのまま息絶えた。村人が堂の傍らに埋めて墓標に杉の木を植えた。すると17日後ににわかに雲起こり大風雨となり、墓標が割れて遺体についた鬼面が飛び出して辻堂に収まってしまった、といいます。
鬼舞の仮面には、このようにお面が取れなくなるという伝説はいくつも残っており、「肉づき面」としておろそかに扱ってはならないとおそれられていたことがうかがえます。また、かつては劇中に登場する亡者たちも仮面をつけて演じられていたのですが、亡者の仮面をつけると早死にすると(逆に長生きするという話もあり)いわれはじめ、現在では亡者は仮面をつけずに演じられるようになりました。前述した迎接寺に残された鬼舞の面は、伝恵心作十二面といわれて非情によい出来で、その中で「幽霊」の仮面をかぶるとやはり早死にする、呪われるといわれていて、まだつけた人すらいないという話が残っています。筆者もこの「幽霊」の仮面を写真で見たことがありますが、何とも気味が悪くて、とてもつけてみたいとは思えないものでした。
もちろん真偽はわかりませんが、そんないわくのある仮面をつけての鬼舞、怖いもの見たさでも一見の価値あり、です。